「政治に望むこと」と言われるとざわざわした雰囲気の中で「政治に望むものはない」という声と入れ替わるように雑多な音声がしているのに気づく。ダイバーシティということらしいです。

 選挙が始まった。だから政治についてなんか思うこともある。今回のごたごたは特別な感じもするけれど驚きはない。しかしまともに考える気分でもない。政治についての思い込みみたいなものたちがすべて失効していたののはわかっているつもりだったから新たに何かを考えていかねばならない。だからなるべく違う感じで何か想像してみよう。無用なものの地点から。

 というわけで、無用というと、それは芸術である。今は亡き赤瀬川原平氏もいいが、格調高くマルセル・デュシャンにしよう。始めます。

 クソまじめな研究書もあるが面倒なので、伝記みたいなのがいいか。ということで探してみると今どきの図書館にはけっこうなかなかのものがあります。軽い感じの(だがかなり厚くて重たい本)本があった。カルヴィン・トムキンズ著『マルセル・デュシャン』。この伝記をパラパラと眺めていたらこんなフレーズが目に飛び込んできた。なんだかよくわからないのだけれど政治のことを考えるときはいいかなってことで引用します。

 「解答はない。なぜなら問題が存在しないから。」というフレーズ。ふーん、なるほど。って、何がなるほど?自分で自問自答しないといけません。

 デュシャンはそこそこたくさんの作品を残しているらしい。いちばん有名な作品と言えば、20世紀ではポピュラーであった男性用の小用の便器を買って来てそれを美術展に出品した「泉」という「作品」である。写真でしか見たこと(?)はないけれど、実際に美術館で何も知らないで見たら「ふふふ」って笑っちゃうだろうな。そんなことをやった人がマルセル・デュシャンです。たんなる既製品を芸術であると宣言して(つまり創造行為)彼はこれを「レディメイド」と命名して現代美術の真に新しいジャンルの創始者となった。「泉」みたいなふざけた作品ばかりでもなくて、なかには結構グッとくる(オレだけかな?)作品もいくつもある。創造行為ということが誰にでも開かれていた。ということだった。創造行為は単純なことではない。さて、政治に戻ると、政治を創造行為と見立ててみることもできるはずだ。しかし今は21世紀だ。このことの意味をどう考えたらいいのだろうか。もし、創造行為がデュシャンの時代と大して変わらないのならばこんなことは書く気にはならない。馬を駆って走るのと、モーターバイクで走るのと、21世紀風のE-モバイル電気オートバイで走るのとはまったく違う。内燃機関と電気モーターとは感覚に及ぼす影響が感性に響くものが全く違う。人間は音や振動が立ち上がるときに脳が活性化する。そして思考を働かせる。人間の創造行為はそういうドラマチックなステージが必要だ。創造、生産、工業、産業、ビジネス、マネージメント、経済、政治、等々これらはすべて音や振動、風に光に、闇と体内感覚によってうごめきだしていく。21世紀はこれが根本から変わりつつある。もし真実、ツゥルースというものがそういうものであるならば、ポストツゥルースという言い方はかなり正確だといえるかもしれない。ポストツゥルースに対抗できるものはおそらく「レディメイド」という方法なのかもしれない。おおきいものごとに対してちいさいこと。小さいことであれば音や振動はまだ自分の領域のものであって、それは信じられるだろう。「望むことは何?」ときかれたら「望むものはない」なんて誰も言ったりしない。だから、「レディメイド」という方法は「政治に望むこと」ときかれたときに自分の欲しいものとかやってみたいことなんかを、あるいは自分の知り合いのことなんかをちょっと考えてみるのがいいかもしれない。これならばまだ真実の範囲でしょう。

「解答―問題」というのではなくて「コール アンド レスポンス」という感じであれば先のフレーズに対して「レディメイド」というやり方で応えることはできる。

 政治も「解答―問題」じゃないならば「レディメイド」という応答もある。人が必要とするものあればいいなと思うものはたいていは既製品で済ますことができる。震災が起こった時には人々はみんな既製品を、それほどは使い古してはいない自分のうちにあったものを送って協力していた。「自分でいろいろとやり方をくふうする」のちょっと外のこと。そこには何がある?自分じゃない人たちの何かもある。芸術家は何を言っているか。

 「わたしは強いて矛盾したことを言うようにしてきたけれども、それは自分の好みに迎合しないようにするためだった。」デュシャンの伝記にはこういうフレーズもあった。

 20世紀の古い話を読んでいるとどうやって20世紀が終わりになったのかが思い出されてくる。冷戦が終わるときには大きい戦争は起きなかった。まるで江戸時代が終わるみたいだった様な気もする。ところがそういうことでは済まないで、まるで生贄みたいなものがやはり必要なのかどうかはわからないが、戦争は起こる。新時代のテクノロジーに我々は皆直面したわけだった。最初の無人攻撃機ボスニア紛争で飛んだ。湾岸戦争は最初のハイテク戦争だったし、メディア環境が十分に考えられコントロールされた最初の戦争だった。20世紀を越えるころから戦争は見世物に近づいていき、大規模な生贄の祭りとかいくら立ててもまるで効果の無いたくさんの無駄に見える人柱とかメディア環境のために行われる何か得体のしれない目的のはっきりしないものになっていった。 

 そうやって生活していく我々には、それは単に、あるいは、それは「問題」を「遅延」させることだけをしているようにすら見える。

 デュシャンの作品、通常は「大ガラス」と呼ばれている「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」というめんどくさいタイトルのついた作品がある。単に見ただけでは何のことか皆目見当もつかない作品で、それはこんな風に説明されている。

 「性愛のドラマが、われらが全能にしておよそ恥知らずの花嫁が欲望の目的であるすばらしい振動に身をゆだねるまでの絶妙の遅延のあいだに、その心と想像力のなかでのみくりひろげられるのだとすれば、もちろん話はちがってくる。花嫁は目的を達成するのだろうか。あるいは遅延の絶対的な自由、独身の花嫁でありつづけるのか」。

 戦争みたいなことがまるで性愛のドラマであるかのように、どこかで勝手に行われている。「絶妙の遅延」だって?独身の花嫁でありつづけるって?21世紀に入った(21せいきにはいった)美魔女美熟女?いつまでたっても終わらないじゃん。21世紀のデュシャンみたいな人ならば「大ガラス」じゃなくて「なんとかアプリ」で作品を作るとしてそのタイトルは「彼女の不倫相手たちによって裸にされた(ここは花嫁以外にもいっぱいありそうだ。アイドルとかバラエティータレントとか女性政治家とかいろいろ。不倫参性権とか主張する女性政治家なんかはいいねえ)???、さえも」。ダイバーシティということですね。

 「遅延なんてない」のコスプレイヤーたち。どこかで誰かたくさんの人が騒いでいて、メディア環境のなかでは、声がするのがわかる。今では珍しくなった性愛のドラマは「やってる」か「やってない」にすぎないけれど、メディア環境ではそうではない。不倫は他人事ではなくてメディア上では最も人を引き付ける特別な事象のひとつである。そして、なんだかわからないけれども、そのこたえは「ない」というか、「遅延」で終わる。性事にのぞむこと。かわりに「レディメイド」というレスポンスがあった。グーグルにアマゾンがある。そのうち、フィンテックとかのグーグル―アマゾン版みたいなものが出てくるのならば、ほんとうに「解答はいらない。なぜなら問題が存在しないから」となる?「レディメイド」?どっか根本的に間違っている。直感はそう騒ぐ。だって自分が参加してないのにあたかもその中心にいるみたいなくらいに興奮しているのに実際には生贄とか人柱の儀式なんてわれわれにとってはないのと同じなのにどうして我々はそれを知るのか。わけがわからない、意味がわからない。何なんだよそれって。ということで、現在に帰りました。この選挙って、意味がわからないわけがわからないよでした。選挙って遅延か?「政治のドラマが、われらが全能にしておよそ恥知らずの???が欲望の目的であるすばらしい振動に身をゆだねるまでの絶妙の遅延のあいだに、その心と想像力のなかでのみくりひろげられるのだとすれば」、選挙はただの遅延かも知れない。今や選挙はメディア戦略でしかないのかもしれない。ひとりひとりの個人に向けて訴えるようなものとは違って「イメージ」を感染させる操作のテクノロジーである。人間というよりかはある集合的な人格を動かすことが目標になっている。実のところ何をやっているんだか、選挙の後で政治家たちが何を言い出すのかはあまりよくわからない。典型的には、例えば、タバコを目の敵にしている勝ち組が法律を作って喫煙者たちをコントロールするみたいに、説得をするというようなぬるいやり方ではなく法で縛るかタバコの値段を税金をかけることであきらめざるを得ないようにするようなことを好む。合理的な操作方法について際限もなくおしゃべりを続ける風景が当たり前になってからもうずいぶんとたった。人間的な感覚はどういうものだったのかがわからなくなってしまう。イメージだけ。イメージのなかでは人間的であることが本当によくわかるし、感動も涙も瞬時に心にダイレクトに響くし、しかしすぐにそれがどういうものだったのか忘れていく。人間的であることがナイーブには可能ではなくなった。

「望むことは何か」。それは内側に向けた問なのかもしれない。内側から聞こえてくる声があるとしたら、それは、「人間的ななにかでありたい」みたいなことかもしれない。単に見かけだけの美しさやさしさは我々を操作しようとする。多様性を大切にしよう。差別は許さない。イメージを通してしかやってこないメッセージ。どこか恐ろしいほどの隠された暴力性が立ちはだかっているような圧迫感がある。単純に雑に簡単にいえば合理性という感じだ。

「人間的とはどういうことか?」という問いは現在ではしだいに技術的なものになっている。ロボットとかAIとか、はじまりは「チューリングテスト」あるいは「イミテーション・ゲーム」だった。この問いは経験的なものだ。演繹的には誰もわからないと、同性愛者、今風にいうところの「ゲイ」であったアラン・チューリングは感じていたのだろう。人間的であるとはどういうことか?最近のSF映画はそういうことを扱うようになってきている。それは、自分にとっては特別な存在であること、そういう風に感じられるもの、他人にとってはどうでもいいことかもしれない、どこか間違っているかもしれない印象がつきまとってしまうかも知れない曖昧なもの。経験的なもの。イメージや記述的なものに還元できずに変わっていってしまう自分にとってしか感じられない意味みたいなこと。このような個人的な経験から生まれてくる夥しい問や願いを人々のいるところへとつないでいくことが「政治の問題」になっていくだろう。技術と心の世界を我々は知る。技術を習得するように技術が何であるのかを知ることはもう不可能になっていく。複雑すぎて変化が速くて人間の能力では分析が追い付かない。そういう未来では人間的であることがただ一つの回答であるだろう。

「望むことは何か」。「欲望の目的であるすばらしい振動に身をゆだねること」。まだたどりつくことのできない「絶妙の遅延」。人間的であること、すばらしい振動に身をゆだねたい。

 デュシャンは「絵画は網膜的なものではない」という。彼をもじって「政治は網膜的なものではない」と言ってみる。ただこう言っただけではだめだな。視覚系や聴覚系、感覚系のその先へさらにその先へ。そこはいったいどういう世界なのか。先住民たちはそれを知っている。直感はそんな感じの歌を歌う。古い古い歌。ひとりのためのではないうた。「レディメイド」というようなものとは全く違う全然ポップではないような歌だ。どうすればそれを聞くことができるか。認知科学のところへ行って尋ねてみたい気がする。胎児が聞いて?いる歌。新生児が聞いている歌。赤ちゃんが聞いている歌。ひとりのためではないうた。

 政治のことを書くつもりだった。既製品で済ませることもできるんじゃないかというようなこと。例えば民主主義。「コール アンド レスポンス」でよいみたいなこと。誰でもが何か聞かれれば何か応える。それでいいじゃないか。別に黙っていたっていい。いろんな見方というのもあるけれど、たいていの人はこともなげに世の中を渡っていく。立ち止まってそれを見ているとちょっと驚いてしまう。日々の用を足すのに欠かせないごくわずかな品々だけを携えて、けっこう身軽に人生の旅を続ける。こういうのが現代的な(最近はとんと聞かない言い方だな)生き方なのかもしれないなんて思っていた。こういう精神の軽やかさは魅力的と映る一方で深い付き合いみたいなこととは縁が薄いようでもある。軽やかさのさきには物事にとらわれないこころの様子が見える。物事にとらわれないこと、無頓着の美しさ。「それもいいですね」「ありとあらゆる事を試みたものもどれも中途半端で、不首尾に終わって仕舞いました」。ただ息をしているだけ。こういうことを評価の対象にしても始まらない。

 穏やかだが無頓着な人が人を育てることもある。そういう親に対して子供は自由だから何事にもとらわれないで生きていくことも考えることもできる。なんだろう。それが社会の応えなような気がする。こういうプロセスが何かへの解答となることを望む。

 経済は発展を望むから無頓着はありえないというだろう。教育をちゃんとしていい学校に行って自分の能力を発揮できるところへ行け。ひとかどの人物にならねばならないといつも自分に言い聞かせて目的をもって生きるのだ。そんなことには無頓着に、社会はそういう経済とは距離を取って別のところを眺めている。社会を変えることが社会を解体することにつながってしまったのが20世紀だった。そう思うならば、こういう見方だってある。ちょっと待ってみて、そうすれば「無頓着の美しさ」があること、それに高い価値を認めようって気分になれるかもしれない。

 今のアメリカでは20世紀のヨーロッパを再演しているようにも見える。誰かかつて有名だった偉人が言った言葉のように一度目は悲劇だが二度目はコメディだっていうこともある。

 われわれは単に息をしているだけだ。嘘つきもいるし真面目なだけの人もいる。だいたいは単なる呼吸者である。社会は息をしているだけで十分だ。さてではどうやって息をするのか。デュシャンは芸術によってと古希を間近にひかえていたときにいったという。芸術?たぶん彼の言うのは「レディメイド」ということだろう。社会システムの機能連接からちょっと脱け出していい大人が箒でもって遊んでみる。箒って知ってるかい。ほうき、放棄、法規、蜂起、宝器、宝亀、まだまだ先にあるようだ。箒。箒に乗って「政治に望むものはない」という声の空を飛ぶ。

テレビドラマ『刑事ゆがみ』を見ていたら松田修という人の書いた上田秋成論のフレーズを思い出した。「直き心」。

 古本屋で雑にワゴンの中に置かれてあった百円の「図説日本の古典17上田秋成」に今はやりの伊藤若冲や曽我蕭白の絵などが入ってけっこう良くてまたびっくりするほど安いので買った。その本に解説者の松田修の書いているのを読んでみた。その中で印象に残ったフレーズがいくつかある。「直し」ということ、真っ直ぐ。たぶんそれはまっしぐらとかそういう感じなんだと思う。「ねこまっしぐら」というキャッチフレーズのキャットフードのコマーシャルがあったな。まっしぐら。違うかな、でもいいや。

「秋成の、これは、男女の性別を超えた理想的人間像に、「直き心」という一項がある。どの様な知も、どのような愛も、「直し」という一項を欠くことによって、無価となる。」秋成のヒーロー、ヒロインたちは、要するに「悪に強ければ善にも強い」ということだそうだ。直さの故に鬼まで突っ走ったからには、その直さでもって仏果円満の境にまで突っ走るだろう。秋成の江戸時代は、文化文政期は、若者宿というものがあって、家父長制からはみ出した青年たちが、博打よかろう、酒もよし、と自由でありうる若者宿。彼らの労働力の収益は彼らのところにはいくはずもなく、せいぜい小遣いが与えられるに過ぎない。その久しい不満が起爆力を秘めつつ不気味な胎動が感じられるのが文化文政期だそうだ。松田修によると「秋成の世界には、強い女と弱い男(もちろん気象の上のことであるが)が群れている。もう少し表現を変えれば、大人の女と子供の男である。」とのことである。大人とか言われてももうよくわからないが、要するに意気地、心根がストレートだということなのだろう。このストレートさというのは、明るいところではなくて暗いところでこそ生き生きとできるのストレートさのことである。「秋成は、夜をこそ描いた。闇をこそ描いた。」。だいたいこんなところ。

 テレビドラマの方は、第一話は、要するに、松田修氏の言い方を流用してみると、「女性憧憬」みたいなものだった。それは、夜の闇の「直き心」のストレートさへの「直き心」の持ち主への苦い味のする「憧憬」であった。

 明るさのなかでは、世俗化した世界では、空気読みしかない。社会が成熟していく。人のやることが次第に機能的な操作へと洗練されていき,そうしたものたちにさらにまた機能的なものが最適化へ向けて操作されていく。所詮はローカルなことだけからまとまって来るだけなので、それがちゃんとしたことなのか、ダメなことに成っていくのかは、空気の中にいるだけでは、それだけからではわからない。めんどくさいだけの、機能と機能が洗練されて次から次へと連接していく空間の中で空気を読んでいくだけでしかない。空気を読むことに脱落しても、それさえも予期されて進んでいくだけだ。気がついたとしてももうそれはずっと前々から決まっていたじゃん。明るいところでは、なすすべがない。ということだから自動機械みたいに止まらない。

 それでもなお何かをなす。ドラマがあるのならば、「直き心」がまっしぐらに進んでいる。どこに行くかは知らない。しかし必然的にそこは暗闇の世界になる。見えないから決着したかどうかは知らない。執着心みたいなものがどうなっていくのかは知らない。これでむしろ自然な感じなのだ。ドラマはもう人生の勝ち負けとか自分の生きる意味とか、その決着とかはどうでもいいこと、個人主義とかリベラリズムとか、機会の平等と個人の自由と個人の才覚のドラマの決着なんて知らない。人が自由に生きること、世界をより良いものへと変えていくこと。もうそんなことはもういい。それはしょせんネオリベラルな流れへと統合されていく。わかってる。ドラマはもうそんなことに興味も関心もない。このドラマの感覚はリベラリズムが失効しているということ、リベラリズムに魅力を感じていた戦後以来長々と続いた時代がようやく去っていくらしいということを指し示しているようである。上っ面なんかではない出会い。決着がどうかとかはあまり重要な感じはしない。とにかく出会いだ。それは、上田秋成の世界の先に行くことでもあるだろうか。キムタクのヒーローから浅野忠信の刑事ゆがみに変わっていた。

 SMAPの終わりということは案外大きいことなのかもしれない。これはまた別のことでした。

北朝鮮の報道を見ていたら日本国憲法のことをなんとなく考えた。

 先進国の間では、たとえどんなにメンドクサイもめごとが起こっても、いきなり戦争で決着をつけるなんてことはまずありえない。技術が進みすぎてしまっているので、勝った方も、負けた方も、その損失、後始末を考えると、戦争なんてあり得ない、事実上不可能になっている。当たり前の感覚として、先進諸国の間では、日本国憲法第九条とかがデファクトスタンダードになっていて、当たり前に普通の人が普通に生きていけるということが当たり前に保証されていなければならないと普通に思われている。なんだかんだ言っても、先進諸国の間では平和憲法みたいなものが空気のように当たり前になっている。考えてみれば、このことはなんか申し訳ない気もする。先進国グループには入っていない国の人たち、それどころではない、国民を当たり前に守ってくれるはずの「国家」すらあやういような国に住んでいる人たちもいる。「あんたたちってなんかずるい」って思われているだろうな。ほんと、そう感じる。だから、北朝鮮の小さな王子様は「核兵器開発したんだぞ、一人前だぞ」って、仲間に入れろって騒いでいるように見える。この星には日本国憲法というようなものがあって、それが当たり前に機能している、最近はあやしくなっては来ているが、それなりに豊かに文化的に普通に安全に生活している人たちのいる国々がある。そういう国から来た人たちが地下鉄や東横線や山手線に乗っていたりする。ビジネスだけではなく、旅行に、観光に来ている人たちだ。

 もちろんそうでないところに住んでいる人たちも大勢いるわけで、というか、そういう人たちの方が断然多いわけで、この星の別のところからこっちを見ているような気がする。そういう問題の、ある種ゆがんで特殊に凝縮してしまったような問題が北の小さな王子様問題なのかもしれない。「あんたたちってなんかずるい」問題というものがあること、それがもう手に負えない所にまで来てしまいそう、日本国憲法の、しかし、半端ない資本主義のキツイ大変なことになりつつあるこの国、だけれどもやはりお花畑のこの日本にミサイル飛んできちゃうの?ってところまできた。というわけで、さてどうやってなだめたらいいんだか。先進国は、戦争は無理だ、ガチンコでガンガンやるなんてできない。原発事故とちがってあらかじめ被害地域を限定できない。というか、原発事故なんてもう絶対あり得ないいやだ。というわけで、先ずは抑止力か。日本国憲法を変える。第九条を変える。でもそれは、「あんたたちってなんかずるい」問題に対する直接的な回答に思われてしまうような気もする。日本国憲法の、なんかのほほんとした平和な感じ。なんか平和的なやり方っていうもの。窮状を変えるときに、そのことに意識的でないと、平和的な感性というか、世界に対する関心のひとつの在り方が消えてしまう不安がある。そしてそこに空白ができる。第九条は変えなければならないだろう。しかし生じてくる空白には予測不能なものがありそうな気がする。誰かが想像力を働かせているのかな。たぶんそうだろな。紅白歌合戦の前に誰かなんか言って欲しいな。期待しよう。

 

北朝鮮は国際社会に受け入れられるには。イニシエーションということ。

子供が大人になること、それは、成人式つまりは通過儀礼、それは、伝統的な社会では、イニシエーションとして設定されていた。国際社会、もしそんなものが本当にあるのならば、北朝鮮は、若い子供である金正恩はそれを「通過」しなければならないだろう。イニシエーションとは「象徴的な死」を潜り抜けなければならない儀式である。国際社会において「大人であること」とはどういうことなのか。彼はそれを「核兵器を持つこと」だと突き付けてきた。

コドモのままに大人になる。そんなことがゆるされていいのだろうか?でも、大人って誰なの?世界の大統領ドナルド・トランプちゃんは大人なのかしら?大人になっていると思いこんでいた僕たちはこまってしまう。「象徴的な死」とは何なのだろうか。われわれ日本人は、もしわれわれが大人であるのならば、それをどうやって乗り越えたのだろうか。天皇陛下のことを考えなければならないのかもしれない。小さな国の小さな王子にとって、「象徴的な死」とはどういうことなのだろうか。いまはそれを誰も知らない。大きな子供と小さな子供が、ともにそれを「経験」しなければならない。我々は見ているだけだ。これは儀式なのだ。そうあってほしい。

プロレスのように。ポストツゥルースの着地点はあるはずだ。

子供の時に初めて見たプロレスは真実の試合だった。それがどんなプロスポーツにも似ていないことが分かるには大した時間はかからなかった。プロレスはひとりひとりの心の中にだけ真実があるだけで、現実の真理とは何の関係もない。オリンピックはナショナリズムの、プロ野球愛郷心の、プロサッカーはフーリガンの、それぞれの真実を現実にもたらしている。権威があり、尊敬があり、共感があり、真実があり、持続する集団的な記憶や誇りがあり、それぞれの土地に、そこの人々に、意味と霊感を与える。それに対して、プロレスはリアルななにものも与えることはない。自分の中でだけの真実であり、自分の中でだけの意味と霊感だ。プロレスは世界の、現実の、人々の生活の、何も全く変えることがない。しかし、プロレスは、ファンの一人ひとりを確実に変える。興奮と共感、失望とそれなりの満足をもたらしてくれる。プロレスの世界では、ナチスのような差別主義も、リベラルな正義感も、興奮も憎しみも、すべてリングの中で輝きながらその場限りのその時限りのフェイクのパフォーマンスの時間の中で物語を聞かせて終わる。大したわだかまりも失望や快感もその場限りで消化しておしまい。

 そういう意味では、これは、現代の社会が発明した新しい経験だ。最後に残った「機能する」啓蒙主義だ。自分の中でだけの理想主義、自分の中でだけの希望、自分の中でだけの良心。まったく世界を変える力を持つことはないけれど、良くも悪くも、社会を変えるという意識をもたらすことはない。そういう意味では、人々をそのままにしておく。このような消極的な啓蒙主義、理想主義、昨日から明日が大して変わることもないような退屈な日常がそのままに続くこと。それがどんなにか素晴らしいことなのか、ようやく我々は知る。ポストツゥルースを無害なものにしてくれるかもしれない何かがここにはある気がする。

 20世紀のアメリカの、混乱している社会が崩壊していくような気分が広がりつつあった時に、カート・ヴォネガットSF小説の中で「無害な非真実」というアイデアを出していた。ヴォネガットであれば今何を言うだろうか。トランプはプロレスのプロモーターをやっていた。トランプ大統領をヴォネガット的人物だと誰かに言ってほしい。彼を「無害な非真実」であると着地点を示してほしい。「ここがリングだ!みんな集まれ!」歴史に名を残したいのなら、安倍晋三よ、東京でプロレスを興行せよ。アジア太平洋選手権,Tokyoワールドシリーズ、夢の世界平和選手権だ。世界の大統領ドナルド・トランプvsアジアの虎北の王者金正恩。裁くレフリーは世界のマリオ、今回はシンゴジラ安倍晋三、世界を冷温凍結出来るかどうか。安倍晋三がんばれ!!

北朝鮮に那須与一(なすのよいち)がいるのなら。

トランプは何をするのだろうか。普通に考えると、とんでもないことになってきているのではあるが、でも日本じゃ「とんでもないことでございます。」みたいなことは何だか普通のことになっているみたいだし、われわれ日本人たちは、なんか気楽にしている。「核ミサイルを持ってるぞ、ICBMだぞ。グアム島の沖にミサイル落して見せてやる。日本なんか火の海だぞ」ってキムちゃんははしゃいでいる。しかし、北朝鮮のことをどうこうするとかいっても日本じゃどうにもならない。というわけで、くだらないことを想像することにした。平家物語のエピソードみたいに、トランプにはやってもらいたいことがある。グアム島の沖にきらびやかに飾ったかっこいい船に、トランプさんご自慢のビキニの美女に大きなハートのエースのカードを掲げさせて、「金正恩よ!このトランプを射落としてみよ!」と挑発してもらいたい。もし、北朝鮮のご自慢のミサイルが見事に的を打ち落としたら、トランプならどうするだろうか。

「みごとじゃ、金正恩。よし、お前らの望みをかなえてやるぞ。安全条約を結んでお前の国を同盟国にしてやる。金も技術も経済開発も約束してやる。うまくやろうぜ!あの嫌な中国野郎に核ミサイルを向けて脅かしてやろうぜ。お前は大したやつだ。根性もあるし、いいやつだと思ってたぜ。これで中国包囲網は完璧だ。」。トランプ偉い、頑張ってね。北朝鮮那須与一はいるか。北朝鮮も頑張れ。これで中国もおとなしくなるであろう。東アジアは繁栄するぞ。今日は何の日だ。終戦記念日とかいうメモリアルデーであった。トランプの裸の美女が見たい。誰かもっと面白い妄想があれば教えてね。

テレビとショービニズムは相性はいいのだろうか?

ショービニズムとは編集

 

 笛吹けども踊らずであってもとりあえず演出しとけばテレビは食っていける。東京オリンピックがどんな感じになるのかはわからないけどいつのまにか終わっているようならいいと思う。だけども「跡始末」は面倒だろうな。