「政治に望むこと」と言われるとざわざわした雰囲気の中で「政治に望むものはない」という声と入れ替わるように雑多な音声がしているのに気づく。ダイバーシティということらしいです。

 選挙が始まった。だから政治についてなんか思うこともある。今回のごたごたは特別な感じもするけれど驚きはない。しかしまともに考える気分でもない。政治についての思い込みみたいなものたちがすべて失効していたののはわかっているつもりだったから新たに何かを考えていかねばならない。だからなるべく違う感じで何か想像してみよう。無用なものの地点から。

 というわけで、無用というと、それは芸術である。今は亡き赤瀬川原平氏もいいが、格調高くマルセル・デュシャンにしよう。始めます。

 クソまじめな研究書もあるが面倒なので、伝記みたいなのがいいか。ということで探してみると今どきの図書館にはけっこうなかなかのものがあります。軽い感じの(だがかなり厚くて重たい本)本があった。カルヴィン・トムキンズ著『マルセル・デュシャン』。この伝記をパラパラと眺めていたらこんなフレーズが目に飛び込んできた。なんだかよくわからないのだけれど政治のことを考えるときはいいかなってことで引用します。

 「解答はない。なぜなら問題が存在しないから。」というフレーズ。ふーん、なるほど。って、何がなるほど?自分で自問自答しないといけません。

 デュシャンはそこそこたくさんの作品を残しているらしい。いちばん有名な作品と言えば、20世紀ではポピュラーであった男性用の小用の便器を買って来てそれを美術展に出品した「泉」という「作品」である。写真でしか見たこと(?)はないけれど、実際に美術館で何も知らないで見たら「ふふふ」って笑っちゃうだろうな。そんなことをやった人がマルセル・デュシャンです。たんなる既製品を芸術であると宣言して(つまり創造行為)彼はこれを「レディメイド」と命名して現代美術の真に新しいジャンルの創始者となった。「泉」みたいなふざけた作品ばかりでもなくて、なかには結構グッとくる(オレだけかな?)作品もいくつもある。創造行為ということが誰にでも開かれていた。ということだった。創造行為は単純なことではない。さて、政治に戻ると、政治を創造行為と見立ててみることもできるはずだ。しかし今は21世紀だ。このことの意味をどう考えたらいいのだろうか。もし、創造行為がデュシャンの時代と大して変わらないのならばこんなことは書く気にはならない。馬を駆って走るのと、モーターバイクで走るのと、21世紀風のE-モバイル電気オートバイで走るのとはまったく違う。内燃機関と電気モーターとは感覚に及ぼす影響が感性に響くものが全く違う。人間は音や振動が立ち上がるときに脳が活性化する。そして思考を働かせる。人間の創造行為はそういうドラマチックなステージが必要だ。創造、生産、工業、産業、ビジネス、マネージメント、経済、政治、等々これらはすべて音や振動、風に光に、闇と体内感覚によってうごめきだしていく。21世紀はこれが根本から変わりつつある。もし真実、ツゥルースというものがそういうものであるならば、ポストツゥルースという言い方はかなり正確だといえるかもしれない。ポストツゥルースに対抗できるものはおそらく「レディメイド」という方法なのかもしれない。おおきいものごとに対してちいさいこと。小さいことであれば音や振動はまだ自分の領域のものであって、それは信じられるだろう。「望むことは何?」ときかれたら「望むものはない」なんて誰も言ったりしない。だから、「レディメイド」という方法は「政治に望むこと」ときかれたときに自分の欲しいものとかやってみたいことなんかを、あるいは自分の知り合いのことなんかをちょっと考えてみるのがいいかもしれない。これならばまだ真実の範囲でしょう。

「解答―問題」というのではなくて「コール アンド レスポンス」という感じであれば先のフレーズに対して「レディメイド」というやり方で応えることはできる。

 政治も「解答―問題」じゃないならば「レディメイド」という応答もある。人が必要とするものあればいいなと思うものはたいていは既製品で済ますことができる。震災が起こった時には人々はみんな既製品を、それほどは使い古してはいない自分のうちにあったものを送って協力していた。「自分でいろいろとやり方をくふうする」のちょっと外のこと。そこには何がある?自分じゃない人たちの何かもある。芸術家は何を言っているか。

 「わたしは強いて矛盾したことを言うようにしてきたけれども、それは自分の好みに迎合しないようにするためだった。」デュシャンの伝記にはこういうフレーズもあった。

 20世紀の古い話を読んでいるとどうやって20世紀が終わりになったのかが思い出されてくる。冷戦が終わるときには大きい戦争は起きなかった。まるで江戸時代が終わるみたいだった様な気もする。ところがそういうことでは済まないで、まるで生贄みたいなものがやはり必要なのかどうかはわからないが、戦争は起こる。新時代のテクノロジーに我々は皆直面したわけだった。最初の無人攻撃機ボスニア紛争で飛んだ。湾岸戦争は最初のハイテク戦争だったし、メディア環境が十分に考えられコントロールされた最初の戦争だった。20世紀を越えるころから戦争は見世物に近づいていき、大規模な生贄の祭りとかいくら立ててもまるで効果の無いたくさんの無駄に見える人柱とかメディア環境のために行われる何か得体のしれない目的のはっきりしないものになっていった。 

 そうやって生活していく我々には、それは単に、あるいは、それは「問題」を「遅延」させることだけをしているようにすら見える。

 デュシャンの作品、通常は「大ガラス」と呼ばれている「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」というめんどくさいタイトルのついた作品がある。単に見ただけでは何のことか皆目見当もつかない作品で、それはこんな風に説明されている。

 「性愛のドラマが、われらが全能にしておよそ恥知らずの花嫁が欲望の目的であるすばらしい振動に身をゆだねるまでの絶妙の遅延のあいだに、その心と想像力のなかでのみくりひろげられるのだとすれば、もちろん話はちがってくる。花嫁は目的を達成するのだろうか。あるいは遅延の絶対的な自由、独身の花嫁でありつづけるのか」。

 戦争みたいなことがまるで性愛のドラマであるかのように、どこかで勝手に行われている。「絶妙の遅延」だって?独身の花嫁でありつづけるって?21世紀に入った(21せいきにはいった)美魔女美熟女?いつまでたっても終わらないじゃん。21世紀のデュシャンみたいな人ならば「大ガラス」じゃなくて「なんとかアプリ」で作品を作るとしてそのタイトルは「彼女の不倫相手たちによって裸にされた(ここは花嫁以外にもいっぱいありそうだ。アイドルとかバラエティータレントとか女性政治家とかいろいろ。不倫参性権とか主張する女性政治家なんかはいいねえ)???、さえも」。ダイバーシティということですね。

 「遅延なんてない」のコスプレイヤーたち。どこかで誰かたくさんの人が騒いでいて、メディア環境のなかでは、声がするのがわかる。今では珍しくなった性愛のドラマは「やってる」か「やってない」にすぎないけれど、メディア環境ではそうではない。不倫は他人事ではなくてメディア上では最も人を引き付ける特別な事象のひとつである。そして、なんだかわからないけれども、そのこたえは「ない」というか、「遅延」で終わる。性事にのぞむこと。かわりに「レディメイド」というレスポンスがあった。グーグルにアマゾンがある。そのうち、フィンテックとかのグーグル―アマゾン版みたいなものが出てくるのならば、ほんとうに「解答はいらない。なぜなら問題が存在しないから」となる?「レディメイド」?どっか根本的に間違っている。直感はそう騒ぐ。だって自分が参加してないのにあたかもその中心にいるみたいなくらいに興奮しているのに実際には生贄とか人柱の儀式なんてわれわれにとってはないのと同じなのにどうして我々はそれを知るのか。わけがわからない、意味がわからない。何なんだよそれって。ということで、現在に帰りました。この選挙って、意味がわからないわけがわからないよでした。選挙って遅延か?「政治のドラマが、われらが全能にしておよそ恥知らずの???が欲望の目的であるすばらしい振動に身をゆだねるまでの絶妙の遅延のあいだに、その心と想像力のなかでのみくりひろげられるのだとすれば」、選挙はただの遅延かも知れない。今や選挙はメディア戦略でしかないのかもしれない。ひとりひとりの個人に向けて訴えるようなものとは違って「イメージ」を感染させる操作のテクノロジーである。人間というよりかはある集合的な人格を動かすことが目標になっている。実のところ何をやっているんだか、選挙の後で政治家たちが何を言い出すのかはあまりよくわからない。典型的には、例えば、タバコを目の敵にしている勝ち組が法律を作って喫煙者たちをコントロールするみたいに、説得をするというようなぬるいやり方ではなく法で縛るかタバコの値段を税金をかけることであきらめざるを得ないようにするようなことを好む。合理的な操作方法について際限もなくおしゃべりを続ける風景が当たり前になってからもうずいぶんとたった。人間的な感覚はどういうものだったのかがわからなくなってしまう。イメージだけ。イメージのなかでは人間的であることが本当によくわかるし、感動も涙も瞬時に心にダイレクトに響くし、しかしすぐにそれがどういうものだったのか忘れていく。人間的であることがナイーブには可能ではなくなった。

「望むことは何か」。それは内側に向けた問なのかもしれない。内側から聞こえてくる声があるとしたら、それは、「人間的ななにかでありたい」みたいなことかもしれない。単に見かけだけの美しさやさしさは我々を操作しようとする。多様性を大切にしよう。差別は許さない。イメージを通してしかやってこないメッセージ。どこか恐ろしいほどの隠された暴力性が立ちはだかっているような圧迫感がある。単純に雑に簡単にいえば合理性という感じだ。

「人間的とはどういうことか?」という問いは現在ではしだいに技術的なものになっている。ロボットとかAIとか、はじまりは「チューリングテスト」あるいは「イミテーション・ゲーム」だった。この問いは経験的なものだ。演繹的には誰もわからないと、同性愛者、今風にいうところの「ゲイ」であったアラン・チューリングは感じていたのだろう。人間的であるとはどういうことか?最近のSF映画はそういうことを扱うようになってきている。それは、自分にとっては特別な存在であること、そういう風に感じられるもの、他人にとってはどうでもいいことかもしれない、どこか間違っているかもしれない印象がつきまとってしまうかも知れない曖昧なもの。経験的なもの。イメージや記述的なものに還元できずに変わっていってしまう自分にとってしか感じられない意味みたいなこと。このような個人的な経験から生まれてくる夥しい問や願いを人々のいるところへとつないでいくことが「政治の問題」になっていくだろう。技術と心の世界を我々は知る。技術を習得するように技術が何であるのかを知ることはもう不可能になっていく。複雑すぎて変化が速くて人間の能力では分析が追い付かない。そういう未来では人間的であることがただ一つの回答であるだろう。

「望むことは何か」。「欲望の目的であるすばらしい振動に身をゆだねること」。まだたどりつくことのできない「絶妙の遅延」。人間的であること、すばらしい振動に身をゆだねたい。

 デュシャンは「絵画は網膜的なものではない」という。彼をもじって「政治は網膜的なものではない」と言ってみる。ただこう言っただけではだめだな。視覚系や聴覚系、感覚系のその先へさらにその先へ。そこはいったいどういう世界なのか。先住民たちはそれを知っている。直感はそんな感じの歌を歌う。古い古い歌。ひとりのためのではないうた。「レディメイド」というようなものとは全く違う全然ポップではないような歌だ。どうすればそれを聞くことができるか。認知科学のところへ行って尋ねてみたい気がする。胎児が聞いて?いる歌。新生児が聞いている歌。赤ちゃんが聞いている歌。ひとりのためではないうた。

 政治のことを書くつもりだった。既製品で済ませることもできるんじゃないかというようなこと。例えば民主主義。「コール アンド レスポンス」でよいみたいなこと。誰でもが何か聞かれれば何か応える。それでいいじゃないか。別に黙っていたっていい。いろんな見方というのもあるけれど、たいていの人はこともなげに世の中を渡っていく。立ち止まってそれを見ているとちょっと驚いてしまう。日々の用を足すのに欠かせないごくわずかな品々だけを携えて、けっこう身軽に人生の旅を続ける。こういうのが現代的な(最近はとんと聞かない言い方だな)生き方なのかもしれないなんて思っていた。こういう精神の軽やかさは魅力的と映る一方で深い付き合いみたいなこととは縁が薄いようでもある。軽やかさのさきには物事にとらわれないこころの様子が見える。物事にとらわれないこと、無頓着の美しさ。「それもいいですね」「ありとあらゆる事を試みたものもどれも中途半端で、不首尾に終わって仕舞いました」。ただ息をしているだけ。こういうことを評価の対象にしても始まらない。

 穏やかだが無頓着な人が人を育てることもある。そういう親に対して子供は自由だから何事にもとらわれないで生きていくことも考えることもできる。なんだろう。それが社会の応えなような気がする。こういうプロセスが何かへの解答となることを望む。

 経済は発展を望むから無頓着はありえないというだろう。教育をちゃんとしていい学校に行って自分の能力を発揮できるところへ行け。ひとかどの人物にならねばならないといつも自分に言い聞かせて目的をもって生きるのだ。そんなことには無頓着に、社会はそういう経済とは距離を取って別のところを眺めている。社会を変えることが社会を解体することにつながってしまったのが20世紀だった。そう思うならば、こういう見方だってある。ちょっと待ってみて、そうすれば「無頓着の美しさ」があること、それに高い価値を認めようって気分になれるかもしれない。

 今のアメリカでは20世紀のヨーロッパを再演しているようにも見える。誰かかつて有名だった偉人が言った言葉のように一度目は悲劇だが二度目はコメディだっていうこともある。

 われわれは単に息をしているだけだ。嘘つきもいるし真面目なだけの人もいる。だいたいは単なる呼吸者である。社会は息をしているだけで十分だ。さてではどうやって息をするのか。デュシャンは芸術によってと古希を間近にひかえていたときにいったという。芸術?たぶん彼の言うのは「レディメイド」ということだろう。社会システムの機能連接からちょっと脱け出していい大人が箒でもって遊んでみる。箒って知ってるかい。ほうき、放棄、法規、蜂起、宝器、宝亀、まだまだ先にあるようだ。箒。箒に乗って「政治に望むものはない」という声の空を飛ぶ。