テレビドラマ『刑事ゆがみ』を見ていたら松田修という人の書いた上田秋成論のフレーズを思い出した。「直き心」。

 古本屋で雑にワゴンの中に置かれてあった百円の「図説日本の古典17上田秋成」に今はやりの伊藤若冲や曽我蕭白の絵などが入ってけっこう良くてまたびっくりするほど安いので買った。その本に解説者の松田修の書いているのを読んでみた。その中で印象に残ったフレーズがいくつかある。「直し」ということ、真っ直ぐ。たぶんそれはまっしぐらとかそういう感じなんだと思う。「ねこまっしぐら」というキャッチフレーズのキャットフードのコマーシャルがあったな。まっしぐら。違うかな、でもいいや。

「秋成の、これは、男女の性別を超えた理想的人間像に、「直き心」という一項がある。どの様な知も、どのような愛も、「直し」という一項を欠くことによって、無価となる。」秋成のヒーロー、ヒロインたちは、要するに「悪に強ければ善にも強い」ということだそうだ。直さの故に鬼まで突っ走ったからには、その直さでもって仏果円満の境にまで突っ走るだろう。秋成の江戸時代は、文化文政期は、若者宿というものがあって、家父長制からはみ出した青年たちが、博打よかろう、酒もよし、と自由でありうる若者宿。彼らの労働力の収益は彼らのところにはいくはずもなく、せいぜい小遣いが与えられるに過ぎない。その久しい不満が起爆力を秘めつつ不気味な胎動が感じられるのが文化文政期だそうだ。松田修によると「秋成の世界には、強い女と弱い男(もちろん気象の上のことであるが)が群れている。もう少し表現を変えれば、大人の女と子供の男である。」とのことである。大人とか言われてももうよくわからないが、要するに意気地、心根がストレートだということなのだろう。このストレートさというのは、明るいところではなくて暗いところでこそ生き生きとできるのストレートさのことである。「秋成は、夜をこそ描いた。闇をこそ描いた。」。だいたいこんなところ。

 テレビドラマの方は、第一話は、要するに、松田修氏の言い方を流用してみると、「女性憧憬」みたいなものだった。それは、夜の闇の「直き心」のストレートさへの「直き心」の持ち主への苦い味のする「憧憬」であった。

 明るさのなかでは、世俗化した世界では、空気読みしかない。社会が成熟していく。人のやることが次第に機能的な操作へと洗練されていき,そうしたものたちにさらにまた機能的なものが最適化へ向けて操作されていく。所詮はローカルなことだけからまとまって来るだけなので、それがちゃんとしたことなのか、ダメなことに成っていくのかは、空気の中にいるだけでは、それだけからではわからない。めんどくさいだけの、機能と機能が洗練されて次から次へと連接していく空間の中で空気を読んでいくだけでしかない。空気を読むことに脱落しても、それさえも予期されて進んでいくだけだ。気がついたとしてももうそれはずっと前々から決まっていたじゃん。明るいところでは、なすすべがない。ということだから自動機械みたいに止まらない。

 それでもなお何かをなす。ドラマがあるのならば、「直き心」がまっしぐらに進んでいる。どこに行くかは知らない。しかし必然的にそこは暗闇の世界になる。見えないから決着したかどうかは知らない。執着心みたいなものがどうなっていくのかは知らない。これでむしろ自然な感じなのだ。ドラマはもう人生の勝ち負けとか自分の生きる意味とか、その決着とかはどうでもいいこと、個人主義とかリベラリズムとか、機会の平等と個人の自由と個人の才覚のドラマの決着なんて知らない。人が自由に生きること、世界をより良いものへと変えていくこと。もうそんなことはもういい。それはしょせんネオリベラルな流れへと統合されていく。わかってる。ドラマはもうそんなことに興味も関心もない。このドラマの感覚はリベラリズムが失効しているということ、リベラリズムに魅力を感じていた戦後以来長々と続いた時代がようやく去っていくらしいということを指し示しているようである。上っ面なんかではない出会い。決着がどうかとかはあまり重要な感じはしない。とにかく出会いだ。それは、上田秋成の世界の先に行くことでもあるだろうか。キムタクのヒーローから浅野忠信の刑事ゆがみに変わっていた。

 SMAPの終わりということは案外大きいことなのかもしれない。これはまた別のことでした。